春。
何年も会っていない伯父からいきなり電話あり、寺で仕入れてきたという見合い話をされる。
あまりにもびっくりして笑ってしまったが、遠回しにお断りしたところ、通じなかったようで、1週間後にまた電話。
「あの話はどうですか」
しかたなくもう少しはっきりお断りすると、
「では、今後も一人でやっていくつもりですか」と返す刀で聞いてくる伯父。
「まあ、そうですねー」と、咄嗟に答えたが、
電話を切った後で、
「なんか結構失礼じゃないか」
とモヤモヤ。
この伯父は母の姉の配偶者なので、もうとっくに80も越えているはず。
伯母は数年前に亡くなり伯父は現在一人暮らしのはずだが、急に電話していきなり見合いを勧め、あげく「この先もずっと一人のつもりか」とは、まあ無神経だが、本人にしてみれば悪気はなくどちらかと言うと親切心。
それほど親しくないので説教まではされなかったものの、「結婚していないのは訂正すべき状態」という大前提があっての言動だろう。
勝手に私を「訂正すべき存在」にしないでほしいものだ。
そこに、相手という人間を見ないで教義を優先する宗教を感じる、という話。
現在は高校生になる姪っ子も、彼女がまだ小さい頃から、
「なんでひとりなの?」
「結婚しないの?」
「いとこが欲しい」
などと、盆暮れに私に会うたび言ってきた。
ついこの間も「次に会う時は結婚相手連れてきて」と。
年齢1ケタの子どもも、80を越えたおじいちゃんも、やっていることは同じだなと思う。
「みんな教」結婚支部の布教活動か。
この宗教の恐ろしいところは、入信している自覚がないところだ。
親戚という身内なら、私という個人のありようを理解しようとしてくれるのでは、なんて期待して油断していたが、身内だからこそ勧誘の強い宗教でもあるのが「みんな教」なのだ。
私とて、「結婚支部」では部外者でいられても、他の支部で気づかないうちに布教活動の手伝いをしてしまっているかもしれない。
それは、「みんな教」が安心を提供しているから。
無意識に、親切のつもりで、安心第一という教義をいつ何時押しつけてしまうかもしれないからだ。
そんなことがあって、「みんな教」の教義に頼らないで生きていくために、徒手空拳であっても具体的な行動をしていこうと考えた。
それは信者たちが、みんなと同じだから大丈夫だろうと、あまり深く考えないでいることの中身を見ることなのかもしれない。
今日の徒手空拳。
・ヨガのティーチャーズトレーニング説明会参加
・区の集会所で情報収集
・老後のための情報収集
・気分転換に羽田空港(天気が良くて気持ちよかった)
・デッキで飛行機と海を見ながらおにぎりとお茶。
・その後空港内のカフェで20時頃まで本日の情報収集まとめ。(帰りのバスで少し酔う)
・近所のスーパーでずんだ餅購入